みどころ

10年もの歳月を費やした、東山魁夷の代表作を御影堂の再現展示で公開!
再現展示の様子(宮城県美術館での展示)
奈良・唐招提寺の御影堂は、1964(昭和39)年に開祖である鑑真和上の千二百年忌事業として、国宝《鑑真 和上坐像》を安置するために興福寺旧一乗院宸殿を移築して建立されました。 1970(昭和45)年に、《鑑真和上坐像》を納める厨子の扉絵と五室にわたる大障壁画の制作を唐招提寺から依頼された東山魁夷は、七カ月ほどの熟考の末に依頼を受諾し、生涯のすべてをかける気持ちでこの仕事に臨み、10年以上の歳月を費やして完成させました。

本展では、唐招提寺御影堂の内部をほぼ再現する形で障壁画全68面を一堂に展示するため、御影堂の臨場感を間近で味わえます。また、併せて東山魁夷が日本や中国の各地を歩いて描いたスケッチや、幾度も構成を練り直したことがわかる下絵や構図など、完成に至るまでの足跡も紹介します。唐招提寺の御影堂が一般に公開されるのは、毎年6月6日の開山忌を含む3日間だけです。また、現在御影堂は修理事業を行っており、しばらく公開の機会はありません。障壁画の全てをじっくりと鑑賞いただける貴重な機会となります。
日本と中国の二つの風景を調和させ、鑑真和上に捧げた全68面の壮大な大作!
《唐招提寺御影堂障壁画 山雲》(部分)1975(昭和50)年 唐招提寺蔵
《唐招提寺御影堂障壁画 桂林月宵》(部分)1980(昭和55)年 唐招提寺蔵
困難を乗り越えて来日した鑑真和上の魂に風景を捧げることを決意した東山は、5つのテーマで構成される大障壁画を二期に分けて制作しました。第一期は、五度の渡航の失敗で盲目となった和上が実際に見ることのなかった日本の風景を題材とし、雲煙立ち込める山景《山雲》と大きく波の打ち寄せる海景《濤声》を描きました。ともに青を主調とした彩色画で、「青の画家」とも称される東山の清澄な世界観を感じられます。

一方、和上の故国・中国の壮大な風景美を描いた第二期の《揚州薫風 》《黄山暁雲 》《桂林月宵 》では一転してモノクロの世界が広がっています。水墨画をほとんど描いたことがなかった東山が色彩を排した表現に踏み出すきっかけとなった作品で、新境地を拓いた東山の静寂の世界を堪能できます。
神戸ゆかりの画家、東山魁夷
第二期障壁画《揚州薫風》を制作中の東山魁夷
横浜で生まれた東山魁夷(1908~1999)は、3歳から17歳までの少年時代を神戸で過ごしました。幼少の頃は家に引き籠りがちで、ひとりで絵を描いて遊ぶのが好きでしたが、中学校の上級になるにつれて、次第に画家になりたい希望が強く湧き始めました。兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高校)に入学後、画家になることを父に猛反対されましたが、担任教師の助けもあって、「洋画は駄目だが日本画ならば」という条件で、東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験。日本画科に入学して日本画家への道が開かれました。戦中・戦後に生命のはかなさを強く意識するなかで、自然の風景に充実した命を見出し、強い感動を受けた東山は、謙虚に自然と向き合い続け、その姿勢が結実した清澄な風景画の数々は、観るものに生きることの意義や尊さを意識させます。
明治41年 (1908) 横浜に生まれる。本名は東山新吉。
明治44年 (1911) 一家で神戸市に転居し、父が船具商東山商店を営む。最初は三宮、その後兵庫区西出町に住む。
大正2年 (1913) 西出町の私立信成幼稚園に入園。
大正4年 (1915) 神戸市立入江尋常小学校に入学。
大正10年 (1921) 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高校)に入学。
大正15/昭和元年 (1926) 東京美術学校日本画科に入学。在学中を通じ特待生。
昭和6年 (1931) 東京美術学校日本画科卒業。研究科に進み、結城素明に師事。
昭和8年 (1933) 東京美術学校研究科を修了。ドイツに留学。
昭和15年 (1940) 日本画家・川﨑小虎の長女すみと結婚。
昭和20年 (1945) 召集を受け、熊本の部隊に配属される。
昭和22年 (1947) 第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞。
昭和28年 (1953) 千葉県市川市に自宅を新築。設計は吉村順三。
昭和31年 (1956) 《光昏》で日本芸術院賞受賞、政府買い上げとなる。
昭和35年 (1960) 宮内庁より委嘱されていた東宮御所の壁画が完成。
昭和43年 (1968) 皇居・新宮殿壁画《朝明けの潮》が完成。
昭和44年 (1969) 文化勲章を受章。
昭和49年 (1974) 日展理事長に就任。
昭和50年 (1975) 第一期唐招提寺障壁画 《山雲》《濤声》 が完成。
昭和55年 (1980) 第二期唐招提寺障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》 が完成。
平成2年 (1990) 大嘗祭のための屏風《悠紀地方風俗歌屏風》を制作。
長野市に長野県信濃美術館 東山魁夷館が開館。
平成7年 (1995) 長野県山口村(現・岐阜県中津川市)に「東山魁夷心の旅路館」が開館。
平成11年 (1999) 老衰のため死去(享年90)。従三位、勲一等瑞宝章が贈られる。
平成14年 (2002) 「東山魁夷記念 日経日本画大賞」が設立される。
平成17年 (2005) 香川県立東山魁夷せとうち美術館、市川市東山魁夷記念館が開館。
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10年もの歳月を費やした、東山魁夷の代表作を御影堂の再現展示で公開!
再現展示の様子(宮城県美術館での展示)
奈良・唐招提寺の御影堂は、1964(昭和39)年に開祖である鑑真和上の千二百年忌事業として、国宝《鑑真 和上坐像》を安置するために興福寺旧一乗院宸殿を移築して建立されました。 1970(昭和45)年に、《鑑真和上坐像》を納める厨子の扉絵と五室にわたる大障壁画の制作を唐招提寺から依頼された東山魁夷は、七カ月ほどの熟考の末に依頼を受諾し、生涯のすべてをかける気持ちでこの仕事に臨み、10年以上の歳月を費やして完成させました。

本展では、唐招提寺御影堂の内部をほぼ再現する形で障壁画全68面を一堂に展示するため、御影堂の臨場感を間近で味わえます。また、併せて東山魁夷が日本や中国の各地を歩いて描いたスケッチや、幾度も構成を練り直したことがわかる下絵や構図など、完成に至るまでの足跡も紹介します。唐招提寺の御影堂が一般に公開されるのは、毎年6月6日の開山忌を含む3日間だけです。また、現在御影堂は修理事業を行っており、しばらく公開の機会はありません。障壁画の全てをじっくりと鑑賞いただける貴重な機会となります。
日本と中国の二つの風景を調和させ、鑑真和上に捧げた全68面の壮大な大作!
《唐招提寺御影堂障壁画 山雲》(部分)1975(昭和50)年 唐招提寺蔵
《唐招提寺御影堂障壁画 桂林月宵》(部分)1980(昭和55)年 唐招提寺蔵
困難を乗り越えて来日した鑑真和上の魂に風景を捧げることを決意した東山は、5つのテーマで構成される大障壁画を二期に分けて制作しました。第一期は、五度の渡航の失敗で盲目となった和上が実際に見ることのなかった日本の風景を題材とし、雲煙立ち込める山景《山雲》と大きく波の打ち寄せる海景《濤声》を描きました。ともに青を主調とした彩色画で、「青の画家」とも称される東山の清澄な世界観を感じられます。

一方、和上の故国・中国の壮大な風景美を描いた第二期の《揚州薫風 》《黄山暁雲 》《桂林月宵 》では一転してモノクロの世界が広がっています。水墨画をほとんど描いたことがなかった東山が色彩を排した表現に踏み出すきっかけとなった作品で、新境地を拓いた東山の静寂の世界を堪能できます。
神戸ゆかりの画家、東山魁夷
第二期障壁画《揚州薫風》を制作中の東山魁夷
横浜で生まれた東山魁夷(1908~1999)は、3歳から17歳までの少年時代を神戸で過ごしました。幼少の頃は家に引き籠りがちで、ひとりで絵を描いて遊ぶのが好きでしたが、中学校の上級になるにつれて、次第に画家になりたい希望が強く湧き始めました。兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高校)に入学後、画家になることを父に猛反対されましたが、担任教師の助けもあって、「洋画は駄目だが日本画ならば」という条件で、東京美術学校(現・東京藝術大学)を受験。日本画科に入学して日本画家への道が開かれました。戦中・戦後に生命のはかなさを強く意識するなかで、自然の風景に充実した命を見出し、強い感動を受けた東山は、謙虚に自然と向き合い続け、その姿勢が結実した清澄な風景画の数々は、観るものに生きることの意義や尊さを意識させます。
明治41年
(1908)
横浜に生まれる。本名は東山新吉。
明治44年
(1911)
一家で神戸市に転居し、父が船具商東山商店を営む。最初は三宮、その後兵庫区西出町に住む。
大正2年
(1913)
西出町の私立信成幼稚園に入園。
大正4年
(1915)
神戸市立入江尋常小学校に入学。
大正10年
(1921)
兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高校)に入学。
大正15/
昭和元年
(1926)
東京美術学校日本画科に入学。在学中を通じ特待生。
昭和6年
(1931)
東京美術学校日本画科卒業。研究科に進み、結城素明に師事。
昭和8年
(1933)
東京美術学校研究科を修了。ドイツに留学。
昭和15年
(1940)
日本画家・川﨑小虎の長女すみと結婚。
昭和20年
(1945)
召集を受け、熊本の部隊に配属される。
昭和22年
(1947)
第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞。
昭和28年
(1953)
千葉県市川市に自宅を新築。設計は吉村順三。
昭和31年
(1956)
《光昏》で日本芸術院賞受賞、政府買い上げとなる。
昭和35年
(1960)
宮内庁より委嘱されていた東宮御所の壁画が完成。
昭和43年
(1968)
皇居・新宮殿壁画《朝明けの潮》が完成。
昭和44年
(1969)
文化勲章を受章。
昭和49年
(1974)
日展理事長に就任。
昭和50年
(1975)
第一期唐招提寺障壁画 《山雲》《濤声》 が完成。
昭和55年
(1980)
第二期唐招提寺障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》 が完成。
平成2年
(1990)
大嘗祭のための屏風《悠紀地方風俗歌屏風》を制作。
長野市に長野県信濃美術館 東山魁夷館が開館。
平成7年
(1995)
長野県山口村(現・岐阜県中津川市)に「東山魁夷心の旅路館」が開館。
平成11年
(1999)
老衰のため死去(享年90)。従三位、勲一等瑞宝章が贈られる。
平成14年
(2002)
「東山魁夷記念 日経日本画大賞」が設立される。
平成17年
(2005)
香川県立東山魁夷せとうち美術館、市川市東山魁夷記念館が開館。
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